「恋のルール」と「愛のルール」は違う
恋と愛はルールが違う
恋をしたい人と愛したい人が付き合うと、すれ違いが生じることがあります。それは、「恋のルール」と「愛のルール」は違うからです。
「恋のルール」は、所謂、“恋のテクニック”のように、相手を嫉妬させたり、相手の気を引いたり、相手の愛情を試したりすることで、相手の気持ちが盛り上がっていきますが、「愛のルール」は正反対です。むしろ「愛」を抱いている人に「恋のルール」を使うと、関係が壊れてしまうこともあるのです。
例えば、「恋のルール」を持っている人は、相手に自分の存在価値を知らしめようと、本心とは違ってもすぐに、「別れる!」なんてことを言いがちです。
それによって、相手が慌てふためいて、自分に優しくなってくれることを計算しているのです。言うならば、「自分の方が相手よりも優位に立ちたい」ときにもやる方法です。
もちろん相手も同じく「恋」を抱いているのであれば、恋人の存在によって“自分の足りなさ”を埋めているから、「それは困る!」となります。それによって、恋心を燃え上がることだってあるでしょう。
でも、もし相手が「愛」を抱いていたらどうでしょうか?
「愛」を抱いている人は、「相手が別れたがっているのであれば、自分は辛くても、別れてあげた方がお互いのためになるのでは?」と考えるのです。なぜなら、人を愛するとは、「相手がHAPPYなら、自分もHAPPY」ということ。
自分と付き合うことで相手が不幸になるのであれば、自分も悲しいし、「だったらその手を放してあげた方がいいのでは?」と思うのです。
ただし、それが単なる“愛情の試し行為”だと分かった時、愛が壊れ始めます。
「愛」を抱く人は、安心して愛したい
「愛」を抱いている人が、「恋」を抱いている恋人に、“愛情の試し行為”として「別れる!」と言われた時、2人の関係が少しずつ変わってきてしまいます。
「愛」を抱いている方は、優位性なんて考えずに、ただただ相手の幸せを考えているのに、相手にはその思いが伝わっていないことに傷つきますし、さらに、「今後も、何度も愛を試されるのだろうか?」と思います。
つまり、“愛情の試し行為”をされることで、逆に相手を愛することが怖くなってくるのです。恋人が愛情を試そうと「別れる!」と言いだす度に、自分が今までせっせと“愛の積み木”で作りあげてきた城を、バーンと手で崩された気分になります。
そして、また、改めて自分が積み重ねてきた“愛の積み木の城”も、いつかいとも簡単に壊されてしまうのでは?と恐れるようになります。
「愛」を抱く人は、もっと安心して、“愛の積み木の城”を作っていきたいのです。人は、本当に信頼できる相手ではないと、心から愛することはできないものですしね。
でも、 “恋の積み木の城”しか作ってきたことのない人は“愛の積み木の城”が見えません。だから、“恋の積み木の城”ばかりを探し、見つからないと、「自分は愛されていないのでは?」と不安がってしまうのです。
相手から嫉妬され、深く求められ、時に“自分を奪われる”ことが「愛されること」だと勘違いしているからです。だから自分が知らぬ間に、“愛の積み木の城”を崩していることにも気付きません。
でも、それは「愛」ではなく、「恋」なんです。恋は求め合う(奪い合う)ものですが、愛は与え合うものなんですよね。
それでも、愛情を求め合う(奪い合う)ことでエネルギーになる「恋」を、お互いに望んでいるのであれば、関係は成立します。とはいえ、どちらか2人が消耗しきるまでです。恋だけの関係は、そんなに長続きしません。
逆に、お互いに与え合うような「愛」を求めている人にとっては、そういう関係は、自分をすり減らしてしまう分、最終的にはこう考えてしまうでしょう。
「このままお互いが一緒にいることが、本当に幸せなのだろうか?」と。自分のためだけではなく、相手の幸せのためにも。
恋人が「恋のルール」しか持っていないと、自分の溢れ出す愛情が相手には見えないから、恋人はどんどん不安になっていきます。また、自分自身も恋人から“愛情の試し行動”をされる度にひどく傷ついていきます。
それでは、お互いに好き合っていても、一緒にいることでむしろ傷つけ合ってしまいます。これが、「愛と恋のすれ違う」ときに起こることなのです。
では、自分が「恋」を抱いていて、恋人が「愛」抱いていたら、逆に自分は「愛」を抱いていて、恋人が「恋」を抱いている場合は、どうしたらいいのでしょうか?
自分が「恋」を抱いている場合は?
もし、自分が「恋」を抱いていて、今回のコラムを読んだら、ハッとすることでしょう。
お互いが「恋」を抱いている同士だったら問題ないのですが、恋人が「愛」を抱いている場合は、「2人のルールが違う」ことをよく理解し、自分も少しずつ、「愛するとはどういうことか?」を学んでいく必要があります。
愛は与え合う関係なので、自分の足りなさを人で埋めようとしている状態の時は、まだ人を愛することは難しいです。また、自分を愛していない人は、人のことを愛することはできません。
だからこそ、少しずつでいいので、自分を愛し、精神的な自立を学んでいくのです。自分で自分の価値を認め、受け止め、1人でも立っていられる人になることが重要なのです。
例えば、「寂しいから会いたい」と「好きだから会いたい」は違います。「寂しいから会いたい」は敢えて言うなら、「暇だから会いたい」の方に近いです。
つまり、前者は「自分の足りなさを相手の存在で埋めようとしている行為」であり、後者は「相手に愛を注ごうとしている行為」とも言えます。寂しいからではなく、「相手の笑顔を見たいから、会いたい」くらいになれるように心がけてみましょう。
少なくとも、“愛情の試し行為”は、相手を不幸せにする行為です。自分が満足するために相手に嫌な気分にさせてしまうことは、愛ではありませんよ?
恋人が「恋」を抱いている場合は?
人を“愛せる人”になれるかどうかは、個人差があります。中には、一生かかっても分からない人もいます。それはある意味、“目覚め”(もしくは、悟り)に近いものであるからです。だから、相手が愛せるようになるために、いくら強く勧めたとしても、本人の強い意思がないと難しいこともあるのです。
ただ、人との出会いは偶然ではなく、何かしらの大きな力によって与えられています。つまり、「愛」を抱いている自分に、「恋」を抱いている相手が出会ったのには、必ず意味があります。
「相手が今、愛を学ぶタイミングである」とも言えますし、逆に「自分がもっと大きな愛を学ぶために出会っている」のかもしれません。
だったら、「相手に優しく教えてあげる」というのも大切なことです。もちろん「恋をしたがっている人」にとっては、愛というのは、物足りなさを感じるものでもあります。だから、相手の気持ちが冷めてしまったら、それまでですが、自分が出来る限りのことはしてあげられるといいですね。
愛と恋はすれ違う
「愛」と「恋」は似ているようで、全く違うものです。でも、形が見えるものではないから、各々の心で判断するしかないところに、恋と愛の難しさがあります。本人は恋を抱いているのに、「愛している」と勘違いしていることもありますしね。
また「100%の愛」「100%の恋」を抱いている人というのも、ほぼいません。基本は混合型で、どちらの割合がどれだけ多いのか、といった話。言うなれば、「愛寄り」か「恋寄り」か、みたいな話でもあります。
だからこそ、誰でも「恋の割合よりも愛の割合を増やすことができる」とも言えますし、それは、本人の強い意思次第でもあるのです。
あなたがしたいのは、恋ですか?それとも、愛ですか?
恋愛ガイドより